2010年01月29日

2010文化塾Ⅲ/諏訪道彦氏講演会・交流会

1部.諏訪氏講演2



●開催日
2010年1月16日(土)

●会場
ホテルトヨタキャッスル

●テーマ
「日本が誇るサブカルチャー アニメプロデュースから学ぶ文化創造」

10:30~12:00
第一部 講演会
講師:諏訪 道彦氏
  (讀賣テレビ放送(株) 東京支社 編成局 アニメ事業部 チーフプロデューサー)

12:30~14:00
第二部 交流会
講師:諏訪 道彦氏
ゲスト:森 氏(豊田市中央図書館 館長)



  

2010年01月18日

時代を生きる智慧と勇気 〜フォークソング編〜

豊田文化フォーラム 第18回 とよたまちびと講 不易流行
時代を生きる智慧と勇気 〜フォークソング編〜



●主旨
あの頃の、あの歌を、もう一度!
フォークソングをテーマにトーク& ライブ。
戦争を知らない子供たちのエネルギーは何を生んだのか?
60年代後半から70年代前半を振り返ります。

●PROGRAM
2010年2月20日(土)
【開場】16:00 【開演】17:00
【場所】JAあいち豊田本店 ふれあいホール(豊田市西町4丁目5番地)
【出演】フォークシンガー 杉田 二郎氏 ・ CBCアナウンサー 小堀 勝啓氏 ・ シンガー、ディスクジョッキー 伊藤秀志
【参加費】1,500円(全席自由)

制作協力 CBCラジオ
このもようは、2月28日(日)午後8時から9時、CBCラジオでOAされます。(予定)

●チケット販売(1月19(火)日より販売開始)
T-FACEインフォメーション(B館2F)
豊田市役所文化振興課(西庁舎8F)
豊田市役所市政情報コーナー(南庁舎1F)


チラシの表面(PDF)

チラシの裏面(PDF)  

2009年12月02日

日本が誇るサブカルチャー アニメプロデュースから学ぶ文化創造



●主旨
「名探偵コナン」や「ブラックジャック」「シティーハンター」などのヒットアニメを手がけるアニメプロデューサー諏訪道彦氏(豊田市出身)をお招きし、日本のアニメがなぜ世界的に流行・成功してきたか、どのように世界的流行・成功に導いてきたか、不易流行・文化創造の観点からご講演いただきたいと思います。
出身地が地元豊田という諏訪氏のお話から、私たちは、地域文化創造のヒントを得て、今後に活かしたいと思います。


●PROGRAM
2010年1月16日(土)
【開場】10:00 【開演】10:30
【場所】ホテルトヨタキャッスル 2F 華の間
第1部 講演会
10:30〜12:00
【講師】アニメプロデューサー 諏訪道彦氏
【参加費】1,000円
【定員】300名

第2部 交流会
12:30〜14:00
【参加費】1,000円
【定員】80名
※第1部の講演会に参加された方のみ



チラシを見る(オモテ)



チラシを見る(ウラ)



●チケット販売
豊田市役所南庁舎1階 市政情報コーナー
豊田市役所西庁舎8階 文化振興課  

2009年11月27日

2009文化塾/金沢シリーズ「不易流行」PARTⅡ



11月21日(土) 受付:13:00~ 開催:13:30~
豊田市美術館 講堂にて

◆伝統工芸の継承に息づく不易流行
13:30~
第一部 講演会
講師:市島 桜魚氏(漆工芸作家)

第二部 座談会
講師:市島 桜魚氏(漆工芸作家)、安藤 則義氏(漆工芸作家)、
    吉田 俊英氏(豊田市美術館館長)
コーディネーター:木本 文平氏(藤井達吉現代美術館館長)

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2009年09月30日

2009金沢シリーズ Part2「漆」



●テーマ
「漆」
伝統工芸の
継承に息づく不易流行


●主旨
俳聖・松尾芭蕉が哲学として掲げた『不易流行』。
それは俳諧の特質は新しみにあり、その新しみを求め変化を重ねていく
「流行」こそ「不易(変わらないもの)=伝統」の本質であるという思想です。
今回の文化塾では、金沢市と豊田市の
「伝統文化の役割とその未来」に焦点を当てていきます。
金沢市で実践されている様々な文化戦略や
文化の発展に意欲的に取り組む工芸家の姿を通じて、
「新しい都市・豊田」にあるべき文化発展のかたちと
その可能性について探求してまいります。


●PROGRAM
2009.11.14(土)
【開 場】13:00 【開 演】13:30
 
【場 所】豊田市美術館 講堂

【参加費】1,000円 美術館常設展チケット付

【定 員】150名

第1 部 講演会
講 師/市島桜魚氏(金沢学院大学教授 漆芸作家)

第2 部 座談会
講 師/市島桜魚氏(漆芸作家)、安藤則義氏(漆工芸家)
    吉田俊英氏(豊田市美術館館長)
コーディネータ/木本文平氏(藤井達吉現代美術館館長)


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チケット販売
豊田市役所南庁舎1階 市政情報コーナー
豊田市役所西庁舎8階 文化振興課  

2009年08月01日

2009文化塾/金沢シリーズ「不易流行」PARTⅠ

8月1日(土) 受付:12:30~ 開催:13:00~
名鉄トヨタホテルにて

「不易流行」をテーマに、伝統文化の継承者で、また、
伝統文化の中に新しい風を起こし続ける二人の、講演と対談を行い、
交流会も開催しました。


■第一部
名鉄トヨタホテル 金扇の間
13:00~
1. 講演「一人間として、一料理人として」
  講師:河田 康雄氏

2. 講演「温故知新!」そして「温新知故?」
  講師:大樋 年雄氏

3. 対談「古都金沢に息づく不易流行」
  大樋 年雄氏・河田康雄氏  コーディネーター 林 寛子氏


河田氏講演「一人間として、一料理人として」より---------------------------------



料理長として現場に立っていると、お客様の嗜好を肌で感じる。
一つのジャンルを守るということは、
こんなものが出てきたら嬉しいというものを作ること。
伝統一辺倒では、お客様に心がないことが伝わってしまう。
自分の主義主張も大切だけれど、お客様に合わせて変化していくことが大切。
つる幸は、金沢料理というより、金沢の食材を活かした京都の料理という
路線で父の代からずっとやってきた。
現在は、他県から来た人に喜んでいただこうと、加賀野菜を使った料理を
提供している。
ここ最近は、特に、女性を中心に、うす味になってきている。
お酒のおつまみではなく、食事を愉しむ方が増えている。



今うちには、若いスタッフが8人、私を入れて9人いる。
ぼくらが20くらいのときは、新人類と言われていた。
叱られてもすぐ立ち直る人類。
今の20くらいの人たちを見ていると、ずいぶん変わったと思う。
特徴としては、学校と職場の区別がない。
見えないところでの精進がない。
技術を見て盗むということもない。
できないことは「教わってないから」と言う。
ぼくらの今後のテーマは、若い人たちをどう育てるか、
どういい職人に育てるかだ。
絵が嫌いで絵を描いている人がいないように、
料理が嫌いで料理の道に入ってくる人はいない。
ぼくらは、好きなことをやっているので、壁・苦しさを乗り越えると、
必ず楽しさがある。






大樋氏講演「『温故知新!』そして『温新知故?』」より---------------------------------

このところ、スーパー歌舞伎を観にいくと、
高校生や大学生がたくさん観に来ている。
彼らは、日本を知らない外国人と同じ観方をしている。
珍しくておもしろい、という観方。
でも、日本人のDNAがあって、古いものはなんだ?と探し始める。



伝統やルールを守れる人が、それを破ったり、抜けたりすることで
文化ができる。
いらないことを削ったあとに残るのが、本質的なものだと思う。




対談「古都金沢に息づく不易流行」より---------------------------------
※敬称略



コーディネーター

金沢のまちは、伝統文化が息づくまちですが、
それを担っていく若手を育てることに関してはどうでしょうか?

河田
職人さんに恵まれ、育てるのは確かに上手。
うちの場合、父から教わったことは、決しておろそかにしない。
今自分は43才で、まだ中堅どころ。
レシピにない味を出していくにはまだ経験が足らない。

大樋
親から子へという概念ではない。
やっている人が見ていてやっていく、それが金沢。
伝統とは、実は革新でできている、ということをハートで
理解している人は少ない。

河田
お茶にしても、一人でできるものではない。
どう思ったか、という人々がいて、文化になる。
神社の神輿や、お祭りそのものは、毎年同じでも、誰も飽きない。
それは、変わらないことがいい、ということ。
そして、新しいことをやってみないと、古いもののよさはわからない。



大樋
若い人たちには、感謝する場面をつくっていってあげたい。



河田
口に入るものをつくる、ということは、命をあずかっている、ということ。
自分がこの道を選んでいるということを、認識しないといけない。

大樋
金沢市の観光の委員会があって、どう手作りのよさを伝え
少数の方々に特別な思いをもってもらうかを考え行動している。
みなさんそれぞれに職業もあり、個性豊かな人たちの集まり。
一回一回手作り。
置き換えてみて、豊田市に来た人にとって、観光スポットがあることが
いいわけではない。
いい時間を持ってもらったかどうか。
いいまちづくりの必要がある。






■第二部
名鉄トヨタホテル レストラン ボナール
16:00~17:30
交流会

二人の講師を囲んでの、立食形式の交流会を行いました。
第一部参加者のうち先着60名で行いました。









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講師との打ち合わせ、受付、司会・・・
運営スタッフ(文化フォーラム会員)の顔











  

2009年03月15日

2008春の文化塾/美術館から街へ開くアート:座談会

3月15日 豊田市美術館で行われた春の文化塾の続編。
座談会「美術館から街へ開くアート」 レポートです。

講師4人を迎え、とても興味深い、また、街の将来が楽しみになるような
お話をしていただきました。
市民として、美術館から街へ開くものに対する参画意識が生まれ育っていくような
貴重な時間を、ご参加のみなさんとともに過ごしました。

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講師/秋元 雄史氏(金沢21世紀美術館館長)
     寺 光彦氏(豊田市美術館館長)
     藤 浩志氏(アーティスト)
     西尾 貞臣氏(建築家)

コーディネーター/高橋 綾子(名古屋芸術大学准教授)


場所/豊田市美術館 講堂
時間/14:30~

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※以下、敬称略




秋元さんのお話の中で、豊田の美術館を大変褒めていただいて恐縮。
この美術館の当事者なので、もう少し認識は冷静にしているつもり。
かといって、市民のみなさんに関しては、胸を張って、誇りにしていただける
美術館にしていきたいし、現状は過程にあると思っている。
決して満足しているわけではないし、
これまでやってきたことの経過はきちんととらえて、
次につないでいく、ちょうどそういう時期にきている。
つい最近まで、美術館ができる前まで、金沢で商いをしていた。
私にとって、金沢は、思い出深い場所。
当時の場所が目に焼きついている。
毎日学校に通う、その道のそばで、もともとあった付属の小学校、
県立女学校が共同してあのスペースに入っていた。
住宅・店舗・ビルなどの一角だった。
そんなところに、今、21世紀美術館があるわけで、
どうやって現れたのかと思うけれど、
それを感じさせない往来のしやすさがある。
真ん中・円形の中心に美術館がある。
円形は、どこが入り口でどこが出口かわからない。
そういう意味で、どこからでも入れる。
何か下の方から、子どもたちがわいわい騒ぐ声が聞こえてくる・・・
そういう風景を思い出しながら、道路をみている。
抵抗感がない。
美術館のビジュアルも、考え方の哲学も、開かれていることも、
そして、現代美術館ではあっても親近感があって、交流ができることも、
21世紀美術館の特徴であり、コンセプトがそのまま実現されている。

金沢では、プラットフォームというものを企画され、いろんなことを全国に発信。
美術館と街が一体化。
そういうことを考えると、豊田はまだまだ宿題・課題が多い。

豊田は開館14年。
基本的な美術館の骨格、構想の段階から、その一員になった。
携わって約20年。
その中で、街の状況もすごく変わってきている。
88年に、市民アンケートで、行政に対する意見を収集した。
美術館というものに対し、美術館があった方がいいという人は、約20%。
それは、豊田には若い人がたくさんいて、
これから元気をもらっていく街だからということが言える。
それにしては、文化的な香りが少ない。
文化という分野の中でも、刺激的な、若者が考えているような満足感がない。
それから30年あまり。もう若い街ではなくなっている。
その当時の若者は、かなりのキャリアを積んで、今、この街をつくっている。
社会的・文化的な社会の成熟度が試される、そういう時代に入っている。
そこで、美術館が問題となる。

美術館というのは、不特定多数の方々を対象に多様の事業を展開して、
美術館らしい内容を提供することが役割。
本来的には、少なくとも、その時代だけではなく、
この時代がどうつながってきたのかを知る必要がある。
それを知るためには前の時代も知り、
今後どうつながっていくのかを考える場としての役割がある。
美術の思想的グループとか、事柄とか、
美術の表現世界の中では、非常に変化をとげて今日に至っている。
それをどう見せるのか、狙いをつけて観ていただくのか、試されるところ。
豊田市美術館は、若い人たちの要望があったというだけでなく、今を生きる美術館。
現代の作家の作品も当然とり上げていくことになる。
寺や博物館にある資料があり、そこに人がいる。
個々に過去の人、今生きている人をどう見せるか、それが美術館で、
それを見せるのは、勇気がいること。
堀内さんと斉藤さんは、戦後の早い時代から、
抽象的な世界の中で、独自の世界をつくってきた。
ふたりの展覧会を、国立の近代美術館で開催。
非常に話題を呼んだ。
そして今日の展覧会では、製造者が主体の展覧会となった。
豊田ではなかなかできないだろう、といわれていた。
私たちが例えばゴッホがみたい、印象派がみたい、
そういう希望がかなえられるようになった。
個展的ワンマンショーは、収入の得られる状況が整わないと、できない。

ピカソやマチスの作品は、60億円はする。
1点の作品でもそれだけする。
最低でも20点はほしいし、本当はもっとほしい。
40点、50点集めてつくろうとすると、準備をしないといけない。
採算を考えないといけない。
それだけのものを出しても、収入として入ってくる計算が成り立たないと、できない。
ペイできないことが多い。持ち出しが多い。
そういう展覧会をどうしても観たいという要望があれば、
大きな都市で、宣伝広告をしっかりやった方がいい。
そういうことを、美術館は、いくらやりたくてもできなかった。

豊田市美術館は、よくわからないことをやっているといわれることが多いが、
わからないものにいかに近づいてもらえるかが大事だと思っている。
せっかくの税金を、美術への親近感をもってもらうために、
今日のようなイベントがある。
私たちスタッフの願望がある。
市民と共有している財産を展示するのが美術館。


秋元

ひとくちに美術館と言っても、いろんな観点がある。
市民参画型の、アートをつかった交流館的な発想は、代4期的な発想と言われている。
第1期は、放置しておけばなくなってしまうものを、保存する役割。
日本の文化として残していくこと。
第2期は、鑑賞していただく機会をつくること。
第3期は、何を伝えているのかわからないときに、教育普及、価値づけ。
第4期は、価値付けも、市民と一緒に考えましょう、というもの。
生まれた時期、設立した時期によって、目指していたありようが違う。

豊田市美術館というのは、現代アートの重要なところを保存されている。
世界に向かっていける美術館は、地方になかった。いや、都市部にもなかった。
そんな中で、豊田市美術館は、
圧倒的にすばらしいコレクションを目指したことが感じられる。



自分は、美術と街、もしくは地域とアートというものに関するフェチ。
20数年くらい前、京都で活動をはじめ、紆余曲折ありながら今にきた。
60年代生まれなので、80年代、90年代の流れに飲み込まれないように活動してきた。

ワークショップの報告。
変化していっているのがあたりまえ。
33年1世代説を、自分でとなえている。
街も、33年くらい。
豊田の風景もずいぶん変わったという話をきく。
時代の変化、33年前以上の話。
価値観が変化していく中で、誰かが街を「いい」という価値観でつくっている。
その価値観の総体が街。
いろんな方々が、それぞれの時代の中で、新しい価値観をたちあげようとしてきた。
それを、表現していった。
絵を描く人、文章を書く人、起業する人、いろんな人が行動を起こす。
33年たつと、まったく価値観が変わる。
デジタル世界をみると、ユーチューブでどんどん創作している人がいるのに、
街をみてもわからない。
それだけ、あり方が変わっている。
装置、研究者、研究機関がいると思う。
そういう意味で美術館は必要だし、展示室を持たずに、
もっと展示する場所としてふさわしい場所に、と願っている。
学校の中に展示室、病院の中に展示室・・・
それを位置づけ、論理付けるのが、美術館の役割。
次の時代に伝えていくのも美術館の役割。
駅前にも必要だけど、森の中にも必要なのが美術館。
残すかどうかは、次の世代の人たちが決めること。

自分は、ブログをかなり書いていて、動画もアップしている。
そうすると、データ容量が大変なことになる。
美術館には是非、サーバーを持ってほしい。
それによって、どんどんコレクションできるようになる。

時代が変化していく中で、大きな違和感があり、
多くの人たちが思っているある勘違いがある。
美術作品、完成作品が飾られているのが美術館、と思っていること。
完成されたものを観るというのも大切だが、創る過程が大切。
想像力と表現力を身に付けることがいかに大変か。
自分でサバイバルしていかないといけない時代。
表現力を身に付けるには、創るってことが大事。
例えばプラモデル。
創るときの期待感がいい。
創ることにはまっていく。
できてしまうと「こんなもんなの?」で、次の段階へいく。
創るという時間の豊かさがある。
さわっていく、いじっていく、創っていく、その時間が大切。

ワークショップで玉山君というすごい可能性のある人が、何か作る。
無農薬野菜が道路に生えている、なんていうフィールドを創ったらおもしろいし、
街中が健康になっていく。
お米をつくるというのもいいと思う。
パチンコのような移動型のマシーンがあって、
個人の記憶がどんどん出てくる仕組みがつくれないか。
歴史を語りながら、街をまわっていく。コミュニティーカフェがあったり。
マナーマンが電車の中の環境をつくっていく。
重い槍を持った人が思いやりを語って伝えていく。
そういう自由な発想をワークショップで出し合った。

街は、常に期待感と可能性を求めている。
ここで自己実現ができる、人がつながっていろんなことができる。
新しいチャンネルをつくるということにアートが貢献する。
アーティストがつながる、街の人がつながる、
街におもしろい遺伝子がどんどん繋がっていく。

僕は、アートとは言わない、アーツ。
常識を飛び越える技術だ。


西尾

小牧市生まれ。
小牧市は、造形大学があり、メナード美術館がある。
この2つが、全国的によく知られている。
小牧市の東部在住で、いなかの風景があるところに生まれ育った。
13年東京にいて、30過ぎて、根を生やして暮らしたいと思いながら、帰ってきた。
高蔵寺ニュータウンの隣に、県の開発住宅ができ、
産業廃棄物が投機されている風景があり、さきほど述べた有名な2つがある。
稲刈りが10月半ばに終わり、その田んぼを利用させていただき、キャンパスにし、
周辺の竹を使った作品をつくった。
2005年の愛知万博プレイベントに出品した造形作品。
今年で16年。バンブーインスタレーション。
8つの作品を、大学の先生や芸術家にお願いしてきたが、紆余曲折、
みんなでつくろうとなり、現在に。
11年目から、メナード美術館の館長など学識がある5人の審査員が決める賞があって、
モチベーションを保っている。
15年の区切りを意識してやっていきたい。




仕組みをつくることで風景ができていく。
いろんな人が参加することがいい。
竹を炭にして、空気の浄化をしている、その流れもいい。
地域素材の中で、あふれているし、そこにかかわりをつくっていくことが、
なかなかなくて、いい試み。
賞に関しては、あった方がいい人もいれば、ない方がいい人もいる。
育っていくのがいいと思う。


秋元

教え諭されるといやになるけど、一緒になってやっていくといい。
今の竹の使い方だけでなく、時系列で、竹の使い方を追っていくと、
見えていくものがあるんじゃないか。
1回1回なくなったりするワークショップもある。
そういう人たちのドキュメントが積み重なってくると、厚みが出てくる。


西尾

仕事柄、足助町に行き来があったので、アートが街へ出て行く中で、
私たちがつながっていく。

ソフトに託していくビジョンは?

今の、竹のプロジェクトは、自分もやってみたい。
いろんな美術館含めての活動の実態は、継承できる部分と、
一過性で消えていってしまうはかなさもあり、
スパンの長い、連続性の高められる仕組みが必要。
まったく次元の違うことがらが、あちこちで起こっている。
それを集大成的に、アーカイブ資料に。
蓄積されたものは、あとから付け足すこともできる、という可能性を秘めている。




豊田市美術館というのは、15年近くたって、
街との距離感をできなければと思っているところ。
街の音風景や、機織の音とか・・・。
豊田市美術館という展示空間を、街の中のひとつの呼吸のような、
生きているモチーフとしてつくりあげようと試みている。
映像「都市の光」という企画では、それぞれの都市が
それぞれ持っている魅力を伝える光を募集した。
豊田という街に注目した。
街から取材したものを、美術館でどう表現したかを、もっと街の人たちに伝えたかった。
あるアーティストの、あるカメラマンの目を通したものの展示だとしても、
どこかで感性を共有しているかもしれない。
日常にこまごまと。
何か構築できたらいいなと思っている。

日本とブラジルのユニット100周年。
日本からみたブラジル、ブラジルから見た日本を作り上げたのが、昨年。
保見小学校に協力をいただいて、保見の街と連動して、豊田市美術館の壁面に展示をした。
これを、もっと市民に伝えることが、課題。
ビジョンというような、壮大なテーマではないけれど、これから美術館は、
まだまだ街中との距離感を縮めていくような
プロジェクトを考えていく。
そういう機会に、市民のみなさんに協力いただいて、
市民のみなさんに近い美術館でありたい。


秋元

年中失敗していて、成功のが少ないので、失敗は語りづらいが、
やり終えないといけないので、言いだしっぺだし、失敗してもやり続ける。
誰かが知恵を出してくれる。それが、市民参画型のよさ。
どうしようもなく失敗する、ということがない。
街と人がかかわっていく広場のような美術館。
それをどうやってアーカイブ化するか、もしくはしないか。
評価の決まっている人の展覧会をやって回顧的なものをするのか、
それとも、藤さんの作品ならわからない。
コレクションをしようと思っても、現代美術は大きいので、限界がすぐくる。
また、竹のプロジェクトなどはとてもいいが、現場とのかかわりが美術。
だから、サーバーの話はとてもいいと思った。




表現活動をしていく、それをどう編集していくのか、作品化していくのか、
そういうときギャラリーがあると、ギャラリーのサイズに合わせて作品化できる。
日常の素材、表現していることは作家によってさまざま。
絵を描く、コレクションする、歩く・・・どこの場にもっていくかによって、変わっていく。
その根っこの部分を、コレクションしてほしい。
それを、また作品化できると思う。
美術館のためにアーティストがあるんではない。
いかにできる人たちを、街の中を巻き込んで育てていくか。
そういう仕組みを街中に仕組んでほしい。
爆発は美術館の中ではできないけど、街中でやって、
爆発したあとのものを美術館にもってくる・・・
こういう場合に、美術館は、アートセンターになる。
いろんなつがなりを生むところがおもしろい。


ワークショップ参加者

美術と街、にも興味があって参加。
美術以外のことに興味があって、問題意識を持っていらっしゃることに気づき、
そしてまた、アートがそれにかかわっていけることに気づき、今日来てよかったと思う。
私たちがワークショップで考えたことに関して、思ったことを教えて下さい。




道に、雑草だと思ったら、野菜!なんてクリエイティブでとてもおもしろい。
それから、この会のあとで、美術館のレストランで食事する、というのもおもしろい試み。




情報が氾濫している中で、出会いがどうやってつながっていくのかなというところに関心がある。
一方で、建築の世界は、アナログ。ものごと、多くはアナログ。
人同士もアナログでつながるのが一番。
技術は進歩しても、根っこのところでは、やはりアナログ。


秋元

藤さんのみなさんへのきっかけづくりはおもしろかった。
刺激を受けました。
才能ある人ですね、藤さんは。
まとめ方も含め。




これは、みんなそれぞれ、企画してもらったんですが、わずか3分です。
全然違うふうに発表されたものもありましたが、まとめさせていただきました。
自分が言ったことと違うと感じた方もいると思いますが、
そのズレが大事で、そこからいろいろ生まれ、活動としてつながっていく。
20年後、30年後、違うものになっている。つながっていく。
それがおもしろい。

「いじる」。身体を使う、手を使う。
美術館を、街の人がもっといじっていいんじゃないか。
もっとオープンにしたらいいと思う。逆がまだ多い。
いろんな人が自由にいじって、どんどんいい方向に変わっていく、
そういういい社会であってほしいと思う。  

2009年03月15日

2008春の文化塾/美術館から街へ開くアート:講演会

3月15日 豊田市美術館で行われた春の文化塾。
講演会「街に開く美術館」 レポートです。

世界的にも知られる金沢21世紀美術館の館長が語る
「街に開く美術館」。
美術館というものの捉え方、楽しみ方、
その観点での街づくりというものの可能性など、
聴講のみなさんとともに、新しい発想・視点の発見をしました。


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講師/秋元 雄史氏(金沢21世紀美術館館長)

場所/豊田市美術館 講堂
時間/13:00~

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豊田市美術館に、久しぶりに訪れた。
この美術館は谷口さんの代表作。
よくできているすばらしい建築だと思った。
美術館を維持管理している人たちは大変だと思う。
90年代の国際美術の代表作がこれだけそろっているのは日本でも数少ない。
豊田市の人は、誇りに思ってもいいと思う。
地元におられる方々は、他と比べて、自分たちの持っているものを低く評価しがち。
大変すばらしい美術館なので、ますます発展していってほしい。
こういった豊田文化フォーラムというかたちで、
美術館と市民の方々を結びつける活動をされていることはすばらしい。
活動が発展していって、豊田市の資産をつくっていったらすばらしい。

お題、美術館から街へ開くアート・・・金沢を例にお話を。
美術館と街の人をつなぐプログラムについて。

街の中で、美術館がどういう役割を担っているのか、街の総合力の中で、
美術館を考えていく方向になっているので、
21世紀美術館の土台となっている金沢という街についてお話を。

城下町が今の街になり、伝統芸術、伝統が街の財産。
伝統工芸23 加賀友禅、加賀屋敷など。
芸能4つ 能楽など。
手厚く、街の財産として文化関連施設が守られてきた。
市民芸術村は、市民の創作の場。
24時間いつでもつかえるアトリエ。
そういう施設がさまざまある。これらが金沢市内に38。
金沢は、文化に力を入れてる街。
豊田市みたいに、大きな企業がない街なので、
小さな街の地場産業が寄り集まって街をつくっている。
今の山田市長が力をいれ、伝統文化を金沢の顔になるような施策を進めて、
20年くらいでこのようなかたちに。歴史都市 第1号。
創造都市ネットワーク。
都市規模とか、都市の産業力ではなく、ユネスコの考え方では、
都市の文化力に注目し、文化が新しい街づくりに貢献している街。
例えば、わりと規模が小さいところが多く、
イギリスのエジンバラやアメリカ サンタフェ。
イタリア ジェノバ。それに、金沢は今登録申請。日本では初。
また、文化庁長官から出た文化芸術都市に、金沢は選ばれている。

その中で金沢は何をしているかというと、
38の文化施設が点としてあったが、面として、オール金沢の文化力として
みせていこうという動きがある。
街中の彫刻プロジェクトやオータムプロジェクト・・・
4つの大きなプロジェクトを1つにまとめた。
金沢っていう街そのものを、文化芸術化していく動きがある。

その中で、21世紀美術館は、開館当時の美術館コンセプト・方針が
時代とともに変わってはいき、やる内容が進化していく内容。
1.世界の「現代(いま)とともに生きる美術館
2.まちに活き、市民とつくる、参画交流型の美術館
3.地域の伝統を未来につなげ、世界に開く美術館
4.子どもたちとともに成長する美術館

21世紀美術館は、市民の交流館となるような美術館。
格調高い美術館と、交流館を別につくる話もあったが、
それが1つになっていく経緯があった。
合体したかたちが、21世紀美術館。
建築家が2つを1つにし、そして、水戸から移ってきたメンバー
(市民参画型のアートセンターを初めて作ったのが水戸)が、金沢で実現させた。
開かれた美術館、市民参画型美術館となった。

いろいろプロジェクトをやっていて、教育普及などを行っているが、
普通の美術館とは違うことに、「交流課」というのがあること。
ボランティア活動や友の会、企業会員さんの間をつないでいく活動も行っている。

一般鑑賞プログラム
キッズスタジオプログラム
アートライブラリプログラム
・・・・など。

学校関連事業の中で、2つ大きな流れがある。
美術館に子どもたちに来てもらうだけでなく、美術館が出張することも。
前者をミュージアム・クルーズと呼んでいる。
初年度、小学生全員を対象に行った。3年目から小学校4年生を全員呼ぶようになった。
5,000人いるが、いっせいには呼べないので、春と秋に分かれてきてもらうようになった。
学校単位で。60~70人
ボランティアさんたちが、6~7人の子どもたちを、案内していく。
ボランティアは、半年から1年かけて、時間を割いてもらうという厳しいボランティアだが、
人気があって、登録も70人80人とたくさんいる。
ミュージアム・クルーズは、学校のプログラムに組み込まれている。
どんなふうに観たらいいかを書類にまとめ、事前に先生方が動機付けをする。
作品解説はしていなくて、子どもたちが観て思ったようにシートに書いていく。
先生は、キーワードをたよりにやりとりしていく。
だいたい3時間くらいかけて巡ってもらう。
最初はカチカチになっている子どもたちも、時間がたつにつれ、好奇心の赴くまま、
積極的に観るようになる。
子どもたちの自由意志にまかせて観ていく。
あとは、ボランティアさんがいなくても、子どもたちだけで自由にじっくり観る。
ミュージアムバスでの送迎もある。
学校の先生の様子にもよるが、忘れないうちに感想文を書いてもらったり、
絵にしてもらったりしている。
このプログラムのポイントは、知識を得るということよりも、
ものを創るということに対して敬意を示し、子どもたちが発想すること。
子どもたちがたくさんいるという美術館風景が、21世紀美術館の風景となっている。
大人が嬉しそうに観ている・・・その様子をみて、子どもたちが学んでいたりもする。
鑑賞教育の場というだけでなく、他の大人たちにも影響し、
ボランティアさんの意識の変化も起こす。
そして、われわれ美術館スタッフも多くのことを学ぶ、とても大切なプログラム。

長期プロジェクト。
若者夢チャレンジ---朝顔プロジェクト21----
学生を終えて、まだ社会に出ていない人に向けた、
社会意識を高めていけないかと始めたプロジェクト。
メンタル部分に苦しんでいる人たちも参加できる場。
2年がかりでやったプロジェクト。
美術館の外周350メートル。約2000本の朝顔の苗を植えて育てていく。
観察日記を書く。
参加者が、金沢市内の小中学生から、一般の人たち。
他の土地で育てたものも集めた。
イベントに参加している若者も朝顔プロジェクトに参加し、みんなで作品を育てている感じ。
朝顔を育てつつ、館内では作品ができていく。
美術館の周りにいっぱい朝顔が咲いている絵をもとに、がんばって育てた。
広場に集まった人たちに、朝顔育てませんかと呼びかけていった。
「里親募集」という名称で。
8月には、朝顔でいっぱい。11月頃にはかれてくるが、種を収集。
朝顔育てつつ、作品を。
朝顔の種をイメージ展開して作った船とか。
朝顔の種を拡大すると、それぞれ表情がある・・・それを観察して描いたものを展示。
街の中に広がっていって、他の団体の人たちのビルを覆うようになった。
朝顔のプロジェクトは、街のいたるところで花を咲かせていた。
そんなふうにして続いていった。

私が館長に就任して2年。今年で3年目。
私の方針を事業化していっているが、街の中で展覧会をするというのを実現していった。
それを、アートプラットフォームという。
お城を中心にして19か所で、作品をつくっていく。
そのときの運営上守るべきことは、金沢の街というものを、舞台にすること。
金沢の街が、作品のテーマもしくは主役になっていい。それだけ、金沢を前面に。
金沢の人と関わること。
アーティストが主役というより、場が主役、関わる人が主役。
プラットフォームということばは、
電車が主役、アート作品が主役、ではなく、電車が自由に行き来できる駅、
プラットフォームをつくるということが、これからの課題で、採用した言葉。
開館前に、現代美術を知ってもらうために、街中でワークショップをやっていた。
ハードがあって美術館があるのではない。

出来事をプロデュースして、なにかを起こしていく。
サッカー選手たちのユニフォームの色塗りを子どもたちとやったり、
巨大サッカーボードゲームを組み立てるということをやった。
そのとき、作品の一部に広告協賛を貼った。
企業の協賛で運営費をまかなったりという試みもしている。
美術館の壁にも。
さまざまな人たちを巻き込んで展開したのが、「アートプラットフォーム」。

こうしたことが、美術のすばらしい展開、というのではなく、人が出会い、仕掛けによって、
いろんなかかわりが生まれてくることがすばらしい。
色濃く伝統が残っていて、保守的な社会構造が残っているところでは、
新たな人とのかかわりを生み出すことも、21世紀美術館の役割だと思っている。
新しい風を吹き込むことも、大きな役割。
それまでの固定的社会では会うこともなかった商店の人、子どもたち、商工会の偉い人・・・。
製作側に参加した人たちの数は、20,000人。金沢は45万人都市。
20,000人も支える側に回ったことは、ある成果。
これを1回で終わらせず、3年くらいのスパンで継続していって、
新しい金沢の事業として定着させていきたい。
  

2009年03月15日

2008春の文化塾/美術館から街へ開くアート:ワークショップ

3月15日 豊田市美術館で行われた春の文化塾。
ワークショップ「美術館から街へ開くアート」 レポートです。

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ナビゲート/藤 浩志氏(アーティスト)
場所/豊田市美術館 七州城隅櫓
時間/9:30~11:30

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ナビゲーターに、作家・アーティストの藤氏を迎え、
“ファンタジー”という言葉に惹きつけられた約20人が集まりました。

まず、それぞれ順に自己紹介をしていき、
なぜ、このワークショップにきたのかをそれぞれ発表しました。
地域とアートに興味がある人、美術館に興味がある人、そして、
みな共通しているのが、“ファンタジー”という言葉にひきつけられたということのようでした。

2人ペアになって、美術館またはアートが、街とつながりながらどう展開したらいいか
その人が思うこと、提案したいことを、紙に描いていきました。
絵や文字、記号など、思うままに表現していきました。
それぞれが描いたものを、見せて説明して、各々が出した案について意見交換。
その後に、2人の案をミックスしたものを作り上げ発表していきました。
それに対して、ナビゲーターの藤氏がコメントをしていく、という具合に進んでいきました。
こうしたら実現できるとか、過去にこんなことがあった、など、それぞれの発言を藤氏が補足していました。
そういう話を聴きながら、全国の美術館の、「地域とアート」についての取り組みを、
藤氏のお話から知ることができました。

それぞれに違った問題意識を持っている人が、アートという方法を使って、
「街とつながっていくにはどうしたらいいか」について様々な案を展開し、
お互いに聴くことができ、有意義な時間でした。
  

2009年02月21日

第17回 とよたまちびと講「不易流行」

2008年の文化塾3回を経ての集大成、
とよたまちびと講「不易流行~時代を生きる智慧と勇気は、いつも歌がくれた~」。
2月21日(土) 豊田市コンサートホールにて、
作家・作詞家 なかにし礼 氏の講演会と、
演歌歌手(演ドルの元祖) 林あさ美 氏の歌とトークショーを開催しました。
(開場/15:00 開演/16:00)

大変な盛況で、ホールの1004席が、ほぼ満席となり、
なつかしの昭和歌謡が活き活きとよみがえる時間を
みなさんに愉しんでいただくことができました。



●第1部は、林あさ美さんの「なかにし礼を歌う」。
曲目は・・・

つんつん津軽
ジパング
りんごの歌
王将
知りたくないの
天使の誘惑
今日でお別れ
グッド・バイ・マイ・ラブ
石狩挽歌
時には娼婦のように

の、10曲。
以下、曲と曲の間のトークで、林あさ美さんが語られた内容です。

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オリジナルで男性が歌っている曲が多いけれど、
パワーを持った作品が多い。
強さ・包容力・優しさ・・・そういうものに引っ張られる・・・
そんな曲ばかり。
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豊田市での公演ということで、最後に以下のお話がありました。

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朝日ヶ丘の音頭を歌ったことがあり、
またみんさんの前で歌わせていただきたい。
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●第2部は、なかにし礼さんの講演。

歌に息づく「不易」と「流行」を糸口として、激変の時代である今、
私たちがいかに生きるかのヒントを、語っていただきました。

以下、なかにし礼さんのお話から・・・

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長年、歌を書き、人々によって歌われ、お金を稼いできた。
歌といえば自分の人生の大部分。

「大地の会」という旧満州生まれの人の会があり、私も参加している。
トヨタ自動車の張さんを筆頭に、財界の大御所が集まっている。
山崎豊子の作品「大地の子」からとった名前。
みんな、ソ連軍の攻撃を受け、逃避行し、日本に運ばれたという
共通の体験を持っている。
私は財界人ではないけれど、みなさんと同様、ふるさとのない人間。
少なからず日本に住んでいながら根無し草の感覚。
ずっと、よそ者意識を持って生きてきた。
そういう者同士が知り合い、楽しく食事したり、ゴルフをしたりする会が「大地の会」。

りんごの唄は、私の人生の中で、すごく大事。
引き上げ船に乗り、ソ連軍の爆撃を受け逃避行し、父親をハルピンで亡くし、
絶望と喪失の中では日本へ帰っても幸せになれるとは限らない。
どうやって生きていったらいいのかと、船の上で途方に暮れていた。
そのとき、「りんごの唄」を船頭さんが歌ってくれた。
明るい船頭さんだった。
聴きながら、むなしさ、寂寥感を味わった。私は8才だった。
日本人は、こんなに明るい歌を歌って、もう再出発しているのかと・・・
置いてきぼりのような気持ちになり、その場にへなへなと座り込んでしまった。

「りんごの唄」に限らず、中国残留孤児はみな思っているのではないか・・・
まだ帰れない人もいて、
日本人が、幸せ、豊かに暮らしていることを、非常にさみしく感じているのではないか。
「りんごの唄」は、非常にすばらしい歌だけれど、日本人が遠い感覚がした。
日本は悲惨な体験をしたが、ふるさとを失ってはいない。
うらやましい。
日本のふるさとを歌った「うさぎ追いし」とか・・・
それを聴いても、ふるさとの感覚が湧かない。わからない。
満州には、そんなのどかな山はない。

人並みに、まちの中で歌を聴いたし、美空ひばりを聴いてすばらしいと思った。
そして、「田園交響曲」を聴いたときには、なんてすばらしいんだと感動した。
満州での思い出とぴったりだった。
日本の雷は、品がいい。
一方、満州の雷は、大スペクタクル。
地平線に、稲妻が何本も突き刺さる。
それも、交響曲はぴったりだった。
「田園」を聴いたことで、音楽に目覚め、クラシックを聴くようになった。
私は、満州というふるさとから根こそぎもがれて日本に運ばれた。
6,000km離れた地と呼応するような感覚をクラシックで味わった。

その後シャンソンにものめり込んだ。
日本の歌謡曲にはのめり込めなかった。
19才のとき、喫茶店のボーイをして、そこで行われるシャンソンのライブを聴いた。
日本語に訳されたシャンソンだった。
いったい誰が訳してるんだ?と思った。
だいたいがひどい。
歌手自身が訳していた。
これなら、俺でもできるんじゃないか?と思ったのをきっかけに、
シャンソンの訳者になりたくてフランス語を学んだ。
それなら訳してみないかと声がかかり、訳したら500円もらえた。
当時、ボーイの仕事で1ヶ月働いて5,000~6,000円だったので、
すごいことだった。
なかなか好評で、次から次へと訳していった。
500円が700円になった。
一晩に1曲訳し、1ヶ月に70,000稼いだときもあった。
せっせと貯めて、大学の学費にあて、昭和40年春に卒業した。
あきらめない精神があった。

昭和38年に結婚した。
新婚旅行は伊豆。
そこで、石原裕次郎の一行と遭遇した。
晩御飯を食べ、ロビーにいたら、カウンターに石原裕次郎がいた。
僕の方を見て、手招きしたので、行ってみた。
「こんばんは。なんですか?」と言ったら、
「君たち新婚さん?」と聞かれ、そうだと答えたら、ビールで祝ってくれた。
「仕事はいったいなにをやってる?」と聞かれ、「シャンソンの訳者」だと答えた。
歌謡曲なんてやってない、という意味を込めて言ってみた。
裕次郎さんは、「シャンソン?あんなもの訳しておもしろいのか?」
「日本人なら日本の歌を書け。書いたら見てやる」と言った。
まあ、スターのたわごとだ、と思った。

あるとき、裕次郎さんが主演の「太平洋ひとりぼっち」という映画を観た。
ひとりで太平洋を単独横断する青年を演じていた。
悪天候と体力の消耗、それに狐独との戦いは、人間の限界を越していた。
台風にも見舞われ、大きな巻き波にふりまわされるヨット、苦しい戦いが描かれていた。
そのときの青年の苦悩は、彼に母国への郷愁と、孤独感を残した。
嵐が過ぎ去ったとき、青年がラジオをつけ、日本の歌が流れ、
青年の頬に涙がすーっとこぼれた。
それを観たときに、日本の歌もいいなーと思った。
そうしたら、シャンソンへの情熱がスーッと引いてしまった。

日本の歌を書こうと取り組んだ。
しかし、1,000曲の訳をしても、1曲のオリジナル曲を書くというのはすごい差がある。
何も浮かんでこない。
ずーっと考えていたら、空気が希薄になるような感覚になり、なんとか書けた。
できた曲を石原プロに持っていった。
歌が下手で冷や汗をかいた。
スターのたわごとを真に受け、なんて俺は馬鹿なんだろうと思った。
それからまたシャンソンの訳者に戻った。
でも、1曲オリジナルを書いたというのは、自分にとってかけがえのない事実だった。

それから1年半たってから、石原プロから連絡があった。
石原プロから出すことになったと。
スタジオに行ったら、自分のへなちょこの曲がプロのアレンジによって、
すばらしいものに変貌を遂げていた。
石原さんに「書けるじゃないか」と言われ、その後次々と石原さんの曲を書き、ヒットしていった。
そして、彼の最後の歌「我が人生に悔いなし」を書くことができ、人の縁の不思議さを思った。

日本の歌は、ほとんどが7・5調。
でも、もともとシャンソン訳者で、7・5調でなくても人々の心は動かせるし、
泣くし、喜ぶということをしっかり実感した。
7・5調は、古くは神社仏閣の祝詞からきている。
日本人は、それで心が安らぐ。
でも自分には異邦人的な違和感がある・・・せっかくあるのだから、
日本の情緒の中に自分から入っていってはいけないと思った。
もっとかきまわせ!と。

歌を書くということは、歌手、リリース日も決められた上で依頼が入り、机に向かうこと。
そのとき自分が何歳で、夫だとか父だとか宗派だとか、自分自身の鎧を
全部取り払い、完全な自由の状態をつくること。
日常の延長にはない。
完全な自由の状態になれると、ときに、いい曲が書ける。
自分の魂がキラキラときらめく。
ヒットするときは、確信がある。
私のヒット曲は、すべて会議で否定され、B面だとか、リリース数が少ない。
当たるわけがないと言われながら、世に出る。
そして、ヒットする。
ただ、魂のきらめきを感じなかった曲は、ヒットしない。
歌手がよければ、ではない。
もしそうなら、美空ひばりが歌う曲は、すべてヒットしないといけないことになる。
そうではない。いくら宣伝してもダメなものはダメ。

自分の歌が人に歌われ、街に流れる・・・
そういう幸せ、恍惚、官能・・・
味わった人にしかわからない。
どんな学者にもわからない。
歌は空気。
人から発せられ、人に入り込み、また人が発する・・・。
歌のすばらしさを、みなさんに知っていただきたい。

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【番外編】
設営の様子です。

1,000人ものお客さまをお迎えする大イベント。
腹ごしらえからスタートです。



今回の立役者!
企画、そしてこの日までの準備だけでなく、当日の陣頭指揮も。



ピアノの準備が始まりました。



一方、受付では、配布資料の準備が進みます。
人海戦術です。



トヨタ自動車株式会社 取締役会長 張 富士夫さまより、
講師 なかにし礼さんへ、お花が届きました。
「大地の会」の親交の深さを感じます。



開場時間の1時間ほど前から、どんどんお客さまがいらっしゃって、長蛇の列でした。



15:00、さあ、開場です!
全席自由席でしたので、みなさん小走りで席まで急いでいました。




  

2008年12月07日

2008文化塾/不易流行PARTⅢ

12月6日(土) 名鉄トヨタホテルで、
「金沢・京都・豊田-----。 都市に息づく“不易流行”」をテーマに、
トークショー・パネルディスカッションを行いました。

第一部は、京都在住のエッセイスト(以前は、歌謡曲の作詞家として活躍)
麻生圭子氏トークショーを行いました。

第二部は、講師として「不易流行」を語ってくださった麻生氏の考えを受け、
加賀友禅作家 中町博志氏と、日本画家 伊丹靖夫氏を交え、
パネルディスカッションを行いました。


●第一部 麻生氏トークショー




以下、麻生氏のお話から---------------------------------------------------------

東京では、みんな上を目指して生きている。
高層マンションの最上階が憧れの的になっているのもその象徴。
最上階で東京を見下ろしているけれど、それでも飽き足らなくて、宇宙を目指す。
成功しようと志をもっている人は、独自の宇宙、上を向いて生きている。
逆に、京都では、上に向かって東京で生きているような人には冷ややか。
上ではなく、奥を極める人が尊敬される。
一流か、そうでないか、が評価される。
一流の人には、とても親切な町、それが京都。
ビルの中に入っている店ではなかなか認められない。
つまり、ちっちゃな店でも、“おまんんじゅうならここ”とか“お茶ならここ”と言われる
独立店舗であることが認められる条件のように感じられる。
京都では、奥を極めること、変わらないように見えることに努力し、お金を使う。
それは、川によって分断され、流され、汚され、そして清められ、磨かれ、
育まれていく文化。
人間が歩く速度と同じ速度で川が流れている。
京都の人は、この流れとともに育ってきたんだなあと思う。
だから、変わらないためにエネルギーを使うんだなあと思う。



私たち人間は、DNAを運ぶ船。
大事なのは、私たちが生きていることではなく、つないでいくこと。
それぞれの点が大事なのではなく、子どもというコピーを残すことが大事。
でも、コピーすればいいというわけではなく、変わらないものを残していくために変わる、
自然淘汰されて進化していく。
残していこうというとき、ただ残していくのではなく、人間が半分違う血を入れて
子どもを残すように、大きく変化しながら残していく・・・。



エッセーを書く仕事をする前に、作詞の仕事をしていた。
東京で流行らせることを使命としていた。
でも今、エッセイストとして、京都で極めていくために書いている。
80年代、アイドル全盛時代に、いかにしてベスト10に入るかが全てに優先する
職業作詞家だった。
詩、ポエム・・・そういう言葉の持つ意味と私の職業とはまったく違っていた。
詩・詞を書くというより、言葉のパズルをするような感覚だった。
そのアイドルが、どういう言葉を発するとファンが喜ぶのかを考えて書いた。
とにかく売れる詞を書く、時代を読む、そのアイドルになりきるということが必要だった。
そしてもっともっと俯瞰すると、そのアイドルの言葉を受け取るファンに憑依するような
感覚になることもあった。
それをバランスよく生み出し詞にする。
メロディーが流れるとすらすら書ける、というものではなく、
搾り出していた。とてもエネルギーのいることだった。
これをずーっと続けている作詞家は、ほんとうにすごいと思う。
五感を常に研ぎ澄ますことができる精神力の持ち主だと思う。
才能ではなく、体力・気力。
ずっとヒットを出し続ける人は、ほんとうにすごい。
私はその後、東京で流行らせるためではなく、京都で奥を極める生き方を選んだ。



このフォーラムによって、加賀友禅の中町さんと出会った。
私が思っている加賀友禅とは違った。
いい意味で裏切られた。
伝統文化・伝統工芸を継承しよう、つまり、命をつないでいる人だと思う。

京都は変わらないのがいい、と、東京の人は思っているけれど、
変わらないことに対してどれほどエネルギーを使っていることか。
町・文化は、放っておくと変わっていってしまうもの。
京都は観光で成り立っている町。
加茂川沿いにならんでいる店などは、文化を守る規制によって
看板もはずさないといけない。
看板のまったくない、景観を重視した町。
変わらないように、変わらないように、守られている町。

この不況を、どのように乗り切るか・・・・
東京はどんどん上向きに乗り越えていく。
京都の活路は「奥」。
変化には見えないようにと変化していく。
それは、我慢というエネルギー。
1200年前から遺伝子でつながっている。
時の流れに誇りを持つ、ということを、遺伝子が知っている。
そこが、京都の底力であり、強さである。


●第二部 パネルディスカッション

映像で加賀友禅作家 中町博志 氏の仕事を知る・・・





加賀友禅作家
中町博志 氏 のお話から----------------------------------------------------------



着物にずっと携わっているということは、日本人というものに
すごく関わっていると思う。
着物こそ、不易流行そのもの。

豊田というと、文化はあるんだろうけど時代の最先端というイメージ。
金沢にとっては、何か仕事がもらえるんじゃないか?という期待がある。


日本画家
伊丹靖夫 氏 のお話から----------------------------------------------------------

昔、若い頃は、もみじ描いて歩いて、なんてことはなかった。
でも、ここのところ、もみじを見て「きれいだなー」と思うようになり、
来年あたり描いている気がして怖い(笑)。

私が絵を描き始めた頃、日展を飛び出した連中がおもしろい人物で、
若いやつが日本画を描くなんてことがあんまりないから、
私のことを、引きこんで育ててくれようとした。
ところが、最初、何も教えてくれなかった。
カンバスに絵の具がくっついていればいいんだということしか言わない。

文化や伝統、芸術には、おぼれてもいいけど流されてはいけない。
ものを見るときは、おぼれていないと真価を見ることはできない。

もともと、「日本画」という言葉も存在しなかった。
みんながもっている質感が日本の絵だった。
戦後から、「日本画」と言われるようになった。
伝統は継承するものではない。模写もしない。
自然から学び取ったもの、感じたことを描けばいい。
心を描けば、絵は、人それぞれ。
受け取る側も、感性を磨いていかなければならない。
守っていこうとすれば、変わっていかねばならない。
変わらないためには、絶えず動き続けなければならない。
私自身も、そういうふうに生きていきたい。


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●講師・中町博志氏の加賀友禅作品の展示




●受付の様子



●配布されたもの





●展示・販売された本



●司会者練習風景















  

2008年10月05日

2008文化塾/不易流行PARTⅡ

10月4日(土) 名鉄トヨタホテルで、
「文化を育む気概を金沢商人から学ぶ」をテーマに、
講演会・パネルディスカッションを行いました。

第一部は、金沢で著名な地元情報誌『金澤』などを
発行している出版・広告代理店 株式会社金沢倶楽部
代表取締役社長 山田元一氏にご講演いただきました。

●豊田文化フォーラム会長あいさつ




●第一部 山田氏講演




以下、山田氏のお話から---------------------------------------------------------

金沢は、文化的アイデンティティがあるので、
前田利家以前は蓋をするような傾向がある。
利家から3代をかけて文化を築いた。
お茶、抹茶、お花、和菓子、掛け軸、陶器、金箔、
お仏壇・・・これらがすべて伝統工芸、伝統産業として息づいている。

加賀100万石の文化は、利家から3代をかけて築いてきた文化が源。
さらに源流をたどると、愛知三河、そこに京都のエッセンスを加えている。
これを金沢の人は肯定している。
肯定していることが吸引力、磁石になっている。

外国人、ことに欧米の人に、「日本のどこから来たんですか?
それはどんな町ですか?」と聞かれたことがあった。
そのとき私がとっさに考え答えたのは・・・
「Last city of samurai!」(さむらいの文化が残る最後のまち)。
町民、庶民の文化は、日本各地に残っているが、
金沢に残っているのは、すべて武家文化に発祥している。
庶民が、武家 前田家の文化に憧れ、手習いをする形で継承し、
今の文化が築かれていった。
江戸の文化は、庶民の文化に武家の人たちが憧れてできたものと
私は考えている。金沢は逆。

ある和菓子屋さんが、「昔城への出入りを許された和菓子屋なんだ」と
誇りを語っていた。
そういうことが価格に影響するのも金沢の特徴。
100年たたないと、社会的に認めてもらえないような、
また、そうでなければ社屋を持っていればOKという風潮がある。
だから、認めてもらえないという初期段階を乗り越えていく新興勢力がいて、
それがまた金沢のいいところ。

伝統工芸社会の中に派閥がある。
昔から存在している店、会社の人々が、集まりがあると初対面、
なんてことがある。
これではいけないという危機感もある。
金沢お文化資産を食い潰すことになっていくから。
小さな、昔からのつながりがしがらみになって足を引っ張り合うこともある。
おやじを知ってるとか知らないとか・・・。
しかし、最近は、家業を客観的に見ている経営者が現れている。
つながりをしがらみにせず、前向きに活かす方向へ動き出している。

武家の文化を使って、金沢は石川の中心だ、という意識を植え付けた。
石川県民は、みーんな金沢の方を向いている。
一方、福井県民には、中心的存在がない。
それぞれが「自分とこ」「この辺」的な意識。
若狭は若狭で福井県という意識が薄かったリする。
富山県民は、世界地図を貼り、福井県民は日本地図を貼り、
石川県民は金沢の地図を貼る、といわれている。

金沢は、ウェルカムマインドが大きい。
ゴルフ場が20もあったり、スキー場や温泉もたくさんある。
観光スポットとして発達している。
来てもらったら、1週間くらい飽きさせないよ~という雰囲気。
しかし、打って出る、ということがない。
外から来ることしか考えていない。
金沢からどこへ出るの? 東京へ何を持っていくの? 
ということを考えていない。
例えば福岡は、福岡から出ることを考えたことによって、
「来る」という現象を創り出している。
韓国へ旅行へ行くブームを創り、逆にそれによって、
温泉のまち‘別府’を打ち出した。



日本には、世界的企業が数えるほどしかない。
国内需要だけで経営している中小企業だけでは日本という国が厳しくなる。
海外でつくったものを海外で売り、そこで得た利益を日本に持ち帰り
事業をするという発想がほしいところだと思う。
トヨタ自動車が世界的企業であることが、豊田市にとって
どれほどのポテンシャルかと考えると、
豊田の将来ほんとにスゴいと思う。

金沢21世紀美術館が話題を呼んでいるが、
それをつくったのは、世界に通用するものを、という主旨。
金沢の感覚・センスを世界に打って出るため。
だから金沢の伝統工芸は、美術館の中にはない。

日本は、観光にしても海外へ出て行く発想が多い。
Welcome Japan が少ない。
その中にあって金沢は、富士山、白川郷の次に欧米人が周ってくる観光都市。
ホテルは、たとえばフランス人の富裕層などが来ると、
従業員がピシッとして、社員教育上とてもいい。
観光都市金沢を支えているのは、
「金沢が好きだ」「金沢に誇りを持っている」という思想に発している。
何かを打って出る、ものを売るときなど、「これは金沢って言っていいのか?」
と考え出すのが金沢の人々。
みんな、まちを背負っているという意識がある。

確かにトヨタ自動車の人たちはそういう意識があると思う。
では、豊田市のみなさんはどうか?
トヨタ自動車のものづくりの精神を受け継いでいるかどうかなど、
検討しているだろうか?
金沢は、入れるも出すも、金沢にとってどうだろう?
ということを真剣に検討するまち。
日本全体でいうとあまりそういう発想はないと思う。
豊田は無計画、無意識、何も考えがないように感じる。
金沢から学ぶのはいいけれど、そのままではいけなくて、
豊田としてどう、ということを、もうそろそろ考えなくてはいけないと思う。

うちの会社に、豊田市にお嫁に行く従業員がいる。
「社長、豊田文化フォーラムで何するんですか?」と聞いてきた。
「豊田をすてきなまちにするために、金沢を参考にした話をしてくるんだ」
と答えた。
「ぜひ、すてきなまちにしてほしいです!」と言っていた。
すてきなまちになってほしいと願う人がいるということを、
みなさん知っていてほしいと思う。

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●第二部  パネルディスカッション

地元豊田の商業・文化に詳しい知識人を
コーディネーター、パネラーとして招き、
今後の豊田について、意見交換していただきました。



パネラーのみなさんから、次のような意見がありました。

・外の人に「ああ、トヨタ自動車の豊田ですね」と言われるまち。
それ以上説明がいらないことが、逆に、
文化を考えなくてもよい土壌になっていないか?

・豊田の商店街の人たちは、活性化すること、
よく売れることを考えないのかな? という疑問は常にある。



・豊田の人口は、今後、すごく減る予測がある。
消費の流出、つまり、名古屋や岡崎へ。
よそへの流出を防げば売上は上がるのだが、
三河人の質素倹約、がまんの農文化がネックになっている。
どこのまちも同じになりつつあり、
パーソナリティーやアイデンティティが必要。

・住まいは豊田にあって、東京で仕事している。
豊田出身の人が、外で活躍しているのを見てきた。
今、みんな豊田に戻りたくても、どう戻っていいのかわからない現状がある。
インターナショナルを求め、無計画にポンと出てしまうのではなく、
まず地元に根を張ってから出ることも大切だと思う。



------------------これらの意見に対し、山田氏の意見は次のようなものでした。

文化というものは衝突や軋轢から生まれる。
金沢は、昔、徳川政府の中で、どうしよう、という前田家の軋轢があった。
異端に対する対抗心、負けてなるものかという強さ、
それが金沢の文化を育てた。
豊田には、こういうことがない。
これが豊田だ、という主張や軋轢がない。
豊田もんとは何なんだということが、出てくるといいと思う。

豊田は、精神的に、財政的に、トヨタの庇護下にあると思う。
トヨタ自動車がパトロンのようだ。
それが競争がおきにくい地域性の原因だと思う。
これが‘豊田のものさし’というものがない。
今ないからこそ、これから創ることができる。
すごい可能性を秘めたまちだ。
「これが豊田だー!」と競争し合い、市民が意見を言い合うと、
すばらしいものができていくと思う。
金沢は、「これが金沢だー!」というものができあがっているが、
豊田は、これからコンペティション・競争ができるまち。
これから名をあげていく人を応援することができるまちだからおもしろい!

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●受付の様子

  

2008年07月23日

2008文化塾/不易流行

2008年7月19日(土)

14:00~

ホテルトヨタキャッスルで、2008文化塾を
「不易流行」と題し、開催しました。

第1部 講演会

●金沢老舗和菓子「森八」女将
  中宮 紀伊子 氏



文化・伝統を守り、発展させていく
女将の人生を語っていただきました。

1995年、不況による大企業倒産劇が次々と起こる直前・・・
一番最初に森八が世間を騒がせました。
18代目の主人とともにやってきた店は、
60億円の負債をかかえ、行き詰っていました。
和議申請という道を選び、
のれんの上にあぐらをかいていた自分たちを
厳しく反省して出直しを決意したのでした。



赤字店舗を全部閉め、
全店定休日なしに。
その他すべて・・・・
それまでやってきたことをすべて逆にして
取り組みました。
店側の都合、こちらの視点で経営していたことに気づき、
すべてをお客様の視点に変えていく、
試練を超えていく、再起の日々を語っていただきました。




●パティシエ
  辻口 博啓 氏

全国洋菓子技術コンクールで最年少優勝を機に、
国内外のコンクールで優勝を重ねてきた
スーパーパティシエ辻口氏。





小学校3年生のとき、
友達の誕生日会でショートケーキを初めて食べて感動。
それ以来、目標を1本に定めて歩みだしました。

パティシエになったからには、
まず日本一になろうと心に決め、
すさまじいまでの努力をしてきた辻口氏。
他のパティシエの店のゴミ箱を
来る日も来る日も漁る・・・それをみて、
どんな材料がどこから入手されているのかわかる・・・
そうやって自分の道、自分の菓子を作り上げてきたのです。

美味しく仕上がると必ず母親に電話する・・・。
母親に思いを馳せ、
言葉に詰まりそうになりながら、
世界的パティシエになって流行の先駆者なるまで、
そして、この秋(9月)の金沢進出のことも語っていただきました。



お二人それぞれの講演のあとに、
対談も行いました。

●辻口氏&中宮氏 対談「金沢とお菓子の文化」






第2部 交流会
辻口氏の「フォルティシモアッシュ」と
中宮氏の「森八」のお菓子を楽しみながらのティータイム

講師を囲み、お話をしながら、
お菓子という文化をたくさんの方々と堪能しました。








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2008年7月27日(日)北陸中日新聞に掲載されました。
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