2009年02月21日

第17回 とよたまちびと講「不易流行」

2008年の文化塾3回を経ての集大成、
とよたまちびと講「不易流行~時代を生きる智慧と勇気は、いつも歌がくれた~」。
2月21日(土) 豊田市コンサートホールにて、
作家・作詞家 なかにし礼 氏の講演会と、
演歌歌手(演ドルの元祖) 林あさ美 氏の歌とトークショーを開催しました。
(開場/15:00 開演/16:00)

大変な盛況で、ホールの1004席が、ほぼ満席となり、
なつかしの昭和歌謡が活き活きとよみがえる時間を
みなさんに愉しんでいただくことができました。



●第1部は、林あさ美さんの「なかにし礼を歌う」。
曲目は・・・

つんつん津軽
ジパング
りんごの歌
王将
知りたくないの
天使の誘惑
今日でお別れ
グッド・バイ・マイ・ラブ
石狩挽歌
時には娼婦のように

の、10曲。
以下、曲と曲の間のトークで、林あさ美さんが語られた内容です。

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オリジナルで男性が歌っている曲が多いけれど、
パワーを持った作品が多い。
強さ・包容力・優しさ・・・そういうものに引っ張られる・・・
そんな曲ばかり。
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豊田市での公演ということで、最後に以下のお話がありました。

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朝日ヶ丘の音頭を歌ったことがあり、
またみんさんの前で歌わせていただきたい。
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●第2部は、なかにし礼さんの講演。

歌に息づく「不易」と「流行」を糸口として、激変の時代である今、
私たちがいかに生きるかのヒントを、語っていただきました。

以下、なかにし礼さんのお話から・・・

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長年、歌を書き、人々によって歌われ、お金を稼いできた。
歌といえば自分の人生の大部分。

「大地の会」という旧満州生まれの人の会があり、私も参加している。
トヨタ自動車の張さんを筆頭に、財界の大御所が集まっている。
山崎豊子の作品「大地の子」からとった名前。
みんな、ソ連軍の攻撃を受け、逃避行し、日本に運ばれたという
共通の体験を持っている。
私は財界人ではないけれど、みなさんと同様、ふるさとのない人間。
少なからず日本に住んでいながら根無し草の感覚。
ずっと、よそ者意識を持って生きてきた。
そういう者同士が知り合い、楽しく食事したり、ゴルフをしたりする会が「大地の会」。

りんごの唄は、私の人生の中で、すごく大事。
引き上げ船に乗り、ソ連軍の爆撃を受け逃避行し、父親をハルピンで亡くし、
絶望と喪失の中では日本へ帰っても幸せになれるとは限らない。
どうやって生きていったらいいのかと、船の上で途方に暮れていた。
そのとき、「りんごの唄」を船頭さんが歌ってくれた。
明るい船頭さんだった。
聴きながら、むなしさ、寂寥感を味わった。私は8才だった。
日本人は、こんなに明るい歌を歌って、もう再出発しているのかと・・・
置いてきぼりのような気持ちになり、その場にへなへなと座り込んでしまった。

「りんごの唄」に限らず、中国残留孤児はみな思っているのではないか・・・
まだ帰れない人もいて、
日本人が、幸せ、豊かに暮らしていることを、非常にさみしく感じているのではないか。
「りんごの唄」は、非常にすばらしい歌だけれど、日本人が遠い感覚がした。
日本は悲惨な体験をしたが、ふるさとを失ってはいない。
うらやましい。
日本のふるさとを歌った「うさぎ追いし」とか・・・
それを聴いても、ふるさとの感覚が湧かない。わからない。
満州には、そんなのどかな山はない。

人並みに、まちの中で歌を聴いたし、美空ひばりを聴いてすばらしいと思った。
そして、「田園交響曲」を聴いたときには、なんてすばらしいんだと感動した。
満州での思い出とぴったりだった。
日本の雷は、品がいい。
一方、満州の雷は、大スペクタクル。
地平線に、稲妻が何本も突き刺さる。
それも、交響曲はぴったりだった。
「田園」を聴いたことで、音楽に目覚め、クラシックを聴くようになった。
私は、満州というふるさとから根こそぎもがれて日本に運ばれた。
6,000km離れた地と呼応するような感覚をクラシックで味わった。

その後シャンソンにものめり込んだ。
日本の歌謡曲にはのめり込めなかった。
19才のとき、喫茶店のボーイをして、そこで行われるシャンソンのライブを聴いた。
日本語に訳されたシャンソンだった。
いったい誰が訳してるんだ?と思った。
だいたいがひどい。
歌手自身が訳していた。
これなら、俺でもできるんじゃないか?と思ったのをきっかけに、
シャンソンの訳者になりたくてフランス語を学んだ。
それなら訳してみないかと声がかかり、訳したら500円もらえた。
当時、ボーイの仕事で1ヶ月働いて5,000~6,000円だったので、
すごいことだった。
なかなか好評で、次から次へと訳していった。
500円が700円になった。
一晩に1曲訳し、1ヶ月に70,000稼いだときもあった。
せっせと貯めて、大学の学費にあて、昭和40年春に卒業した。
あきらめない精神があった。

昭和38年に結婚した。
新婚旅行は伊豆。
そこで、石原裕次郎の一行と遭遇した。
晩御飯を食べ、ロビーにいたら、カウンターに石原裕次郎がいた。
僕の方を見て、手招きしたので、行ってみた。
「こんばんは。なんですか?」と言ったら、
「君たち新婚さん?」と聞かれ、そうだと答えたら、ビールで祝ってくれた。
「仕事はいったいなにをやってる?」と聞かれ、「シャンソンの訳者」だと答えた。
歌謡曲なんてやってない、という意味を込めて言ってみた。
裕次郎さんは、「シャンソン?あんなもの訳しておもしろいのか?」
「日本人なら日本の歌を書け。書いたら見てやる」と言った。
まあ、スターのたわごとだ、と思った。

あるとき、裕次郎さんが主演の「太平洋ひとりぼっち」という映画を観た。
ひとりで太平洋を単独横断する青年を演じていた。
悪天候と体力の消耗、それに狐独との戦いは、人間の限界を越していた。
台風にも見舞われ、大きな巻き波にふりまわされるヨット、苦しい戦いが描かれていた。
そのときの青年の苦悩は、彼に母国への郷愁と、孤独感を残した。
嵐が過ぎ去ったとき、青年がラジオをつけ、日本の歌が流れ、
青年の頬に涙がすーっとこぼれた。
それを観たときに、日本の歌もいいなーと思った。
そうしたら、シャンソンへの情熱がスーッと引いてしまった。

日本の歌を書こうと取り組んだ。
しかし、1,000曲の訳をしても、1曲のオリジナル曲を書くというのはすごい差がある。
何も浮かんでこない。
ずーっと考えていたら、空気が希薄になるような感覚になり、なんとか書けた。
できた曲を石原プロに持っていった。
歌が下手で冷や汗をかいた。
スターのたわごとを真に受け、なんて俺は馬鹿なんだろうと思った。
それからまたシャンソンの訳者に戻った。
でも、1曲オリジナルを書いたというのは、自分にとってかけがえのない事実だった。

それから1年半たってから、石原プロから連絡があった。
石原プロから出すことになったと。
スタジオに行ったら、自分のへなちょこの曲がプロのアレンジによって、
すばらしいものに変貌を遂げていた。
石原さんに「書けるじゃないか」と言われ、その後次々と石原さんの曲を書き、ヒットしていった。
そして、彼の最後の歌「我が人生に悔いなし」を書くことができ、人の縁の不思議さを思った。

日本の歌は、ほとんどが7・5調。
でも、もともとシャンソン訳者で、7・5調でなくても人々の心は動かせるし、
泣くし、喜ぶということをしっかり実感した。
7・5調は、古くは神社仏閣の祝詞からきている。
日本人は、それで心が安らぐ。
でも自分には異邦人的な違和感がある・・・せっかくあるのだから、
日本の情緒の中に自分から入っていってはいけないと思った。
もっとかきまわせ!と。

歌を書くということは、歌手、リリース日も決められた上で依頼が入り、机に向かうこと。
そのとき自分が何歳で、夫だとか父だとか宗派だとか、自分自身の鎧を
全部取り払い、完全な自由の状態をつくること。
日常の延長にはない。
完全な自由の状態になれると、ときに、いい曲が書ける。
自分の魂がキラキラときらめく。
ヒットするときは、確信がある。
私のヒット曲は、すべて会議で否定され、B面だとか、リリース数が少ない。
当たるわけがないと言われながら、世に出る。
そして、ヒットする。
ただ、魂のきらめきを感じなかった曲は、ヒットしない。
歌手がよければ、ではない。
もしそうなら、美空ひばりが歌う曲は、すべてヒットしないといけないことになる。
そうではない。いくら宣伝してもダメなものはダメ。

自分の歌が人に歌われ、街に流れる・・・
そういう幸せ、恍惚、官能・・・
味わった人にしかわからない。
どんな学者にもわからない。
歌は空気。
人から発せられ、人に入り込み、また人が発する・・・。
歌のすばらしさを、みなさんに知っていただきたい。

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【番外編】
設営の様子です。

1,000人ものお客さまをお迎えする大イベント。
腹ごしらえからスタートです。



今回の立役者!
企画、そしてこの日までの準備だけでなく、当日の陣頭指揮も。



ピアノの準備が始まりました。



一方、受付では、配布資料の準備が進みます。
人海戦術です。



トヨタ自動車株式会社 取締役会長 張 富士夫さまより、
講師 なかにし礼さんへ、お花が届きました。
「大地の会」の親交の深さを感じます。



開場時間の1時間ほど前から、どんどんお客さまがいらっしゃって、長蛇の列でした。



15:00、さあ、開場です!
全席自由席でしたので、みなさん小走りで席まで急いでいました。